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・・・・・・・・  序 文  ・・・・・・・・

 いい本には二つの種類があると筆者は考えている。ひとつは読み終わったら、その本のことを誰かに語りたくなる本。もうひとつは、読んだことをそっと自分の内に仕舞っておきたくなる本。
語りたくなる本のことは鹿鳴館サロンの「読書感想会」というイベントで皆と語り合えばいい。
ゆえに、鹿鳴館プレゼント文庫は、もうひとつの、読んだことを他人にはそっと、そしてたいせつに隠しておきたくなるようなものを選ぶことにしている。
さて、その条件をクリアして、偶然、鹿鳴館プレゼント文庫を手にした人の数も多くなってきた。ここでは、どんなものがプレゼントされたのか、また、それをプレゼントとしてセレクトした理由は何だったのか。そうしたことを書き記していこうかと思う。

・・・・  序 文 その2  ・・・・

 いきなり横道にそれる。それもまた鹿鳴館サロンらしいのかもしれない。本当なら、ここから本の紹介に入らなければならないし、おそらく、読む人もそれを予想していたはずなのだ。 しかし、その前にどうしても、もうひとつ書いておく必要があった。
本の紹介をすると、すぐに推薦図書というのがイメージされる。著者はたしかに凄い人物である。凄いので、著者の考えや著者の好み、昨日の夜に何を食べたのかとか、好きな色とか、好きな作家とか、今日のニュースの感想について皆が興味があるに決まっている。それほど著者は凄い人物なのだ。
 どれぐらい凄いかというと、著者の書いたものが三千年後に発見されたら、そのときには、世界的に評価されるに違いないほど凄い人物なのだ。
何しろ、千年後に発見されたって、たいていの文章はたいへんな価値を持つのだから、三千年も経過していたら、そりゃ凄い価値になるに違いない。
ところが、たいていの人は三千年zを待ってくれない。天の時間ならささいなものなのだが、ここでは待てないらしいので、今のこの時点という意味でいうなら、残念ながら、まだ、著者は評価されるに値しない。
著者の好みとか、ニュースに対する意見とか、もっと言うなら、著者が今日、何を食べたか、何を読んだかなどには誰も興味がないに違いない。つくづく三千年後でないのが残念でならない。
 そんな著者が他人の著作を推薦することなど当然できようはずがないし、著者の好みを他人に明かす意味もない。
 では、プレゼント文庫とは何なのか。これは、著者が他人に贈るならこんな本という話なのだ。他人に読んでもらいたい本ではない。他人に贈りたい本なのだ。その理由についてここで記すことは、それが鹿鳴館サロンとは何かということを記すことになるのだ。
 それだけの理由なのだ。くれぐれも著者の推薦図書などという大それたものではないことをご理解願いたい。それを理解してもらえないと、なんだか著者がスター気取りしているようでいたたまれない。スター気取りは著者の容姿だけでたくさんなのだから。ただし、著者を見たことのある人は、著者の容姿について、その感想を述べてはいけない。著者がイケメンだと勘違いして女性がサロンに来てくれたら、それは幸いなのだから。


トルーマン・カポーティ
『夜の樹』


(新潮文庫)

「優しい気持ちで意地悪してくる小説」

 筆者は彼について語ることをしない。彼の小説こそ、まさに、密かにひとりで楽しむものではないかと考えているからだ。また、この小説は読んでない人にそのストーリーを語ってはいけないもののようにも思う。少しでもストーリーについて知ってしまうと、この小説を本当に楽しむことができなくなってしまうからだ。
また、翻訳でも、この小説の美しい描写は伝わるし、翻訳でも、この小説に仕組まれた巧みな仕掛けを楽しむことはできる。
そうした意味において、筆者は、こっそりと誰かにプレゼントするならこの小説だと昔から決めていた。鹿鳴館プレゼント文庫は気まぐれである。最初は何と決められたものではない。しかし、この文庫は明らかにもっとも多くプレゼントされたはずである。

サキ
『サキ短編集』


(新潮文庫)

「悪意に満ちた道徳教育」

 短編の名手。人の醜さというものを子守唄のように優しく書くことが可能だったのかと思いしらされた。ウィットの効いたそれら彼の短編小説は筆者がもっとも憧れたところのものである。ところが、カフカとかカミュと比較すると、彼は日本においては、もうひとつマイナーである。そのマイナーであるという点も鹿鳴館好みなのだ。
そして、彼の描く世界なのだが、これが実にオシャレなのだ。美しく着飾りながら、憎悪とか悪意とか懐疑心とか善意の罠とか、およそ正しく清く道徳的な日本の国語の授業とはかけはなれた内容の物語ばかりが描かれている。そこもまた鹿鳴館好みなのである。
ただ、このサキの短編小説は、日本では、なかなか入手が難しく、それが理由で、実はあまりプレゼントされていなかったりする。

吉田 篤弘
『フィンガーボウルの話のつづき』


(新潮文庫)

「変化球ばかり見ていると直球が魔球に見えたりする」

 存在しない街があるかのように、存在しない物があるかのように、誰の体験でもないものが誰かの体験であるかのように錯覚させられる。つまりは、心地良く騙してくれるもの、それが小説だと筆者は思っている。
そして、それがSMでもあると思っている。
ゆえに、鹿鳴館サロンはあまりにも日常的なことを嫌っているのである。エロ雑誌よりも芸術書が並べてあるのもそうした理由なのだ。
しかし、その現実を逃避する方法にも正攻法というものがある。それを教えてくれるのがこの小説なのだ。何も人を騙すのは悪意ばかりではない、善意でも人は騙せるのだということをこの小説は教えてくれる。
まさに、直球なのだ。しかし、アブノーマルな変化球ばかりに慣れてしまっている鹿鳴館サロンの常連たちには、この直球は恐ろしいまでの変化球、まるで魔球のように感じられるはずである。著者は、そうした意味においてこの本をプレゼント文庫に加えたのである。


小川洋子
『寡黙な死骸 みだらな弔い』


(新潮文庫)

「小説とは人生を描くもの、
そして、人生とは奇妙と不思議の連鎖するもの」

 この作家の小説は、どんなものでもいい、一度は読んで欲しいと著者は考えていた。美しい娯楽という意味が理解できる小説だからなのだ。小説とは、どこまでいっても娯楽である。教育でも道徳でもない。
しかし、娯楽というものは楽をして得られるところの快感ではないのだ。快感を得るためには、けっこう苦労しなければならなかったりする。
それは、人生も同じだ。人生は娯楽であり、娯楽を享受しようと思えば苦労があるものなのだ。苦労がないと、人生は楽かもしれないが楽しくもない。
そんな人生のどうでもいいことを美しい記述で物語ってくれる小説。読む価値と読み終わる価値のある小説。この美しい娯楽を鹿鳴館はプレゼントしたかったのだ。

クラフト・エヴィング商會
『ないもの、あります 』


(ちくま文庫)

「買いはしないけど、ちょっと欲しいもの」

 筆者はプレゼントというものは、自分でお金を出してまでは買わないけど、少し欲しいものを渡すのがオシャレだと考えている。
そうした意味において、この文庫はまさにプレゼントに相応しい本である。生活の役にはまったく立たないし、持っていても他人に自慢できる知識のひとつも身につかない。本の内容を他人に語ったところで、決して理解してもらえないから語り草にもならない。そもそも語り草がどんな草かを知る手がかりにさえならない。
ゆえに、自分でお金を出してまでは買いたくない。買いたくないがどうにも欲しい。この本はそんな本なのだ。ゆえに、プレゼントとしてはこんなオシャレな本はない、という理由で鹿鳴館はこの本こそがまさに鹿鳴館プレゼント文庫に相応しいと考えているのである。

吉行 理恵
『湯ぶねに落ちた猫』


(ちくま文庫)

「このセレクトは優雅な禁じ手である」

 著者は鹿鳴館サロンに対してプレイベートな感情で物事を決定しないようにしている。著者の好き嫌いはサロンのコンセプトと必ずしも一致するものではないからなのだ。
ゆえに、たとえプレゼント文庫であったとしても、それが鹿鳴館として行うものである以上は著者の好むところとは別のところでセレクトしている。
そうした意味で、この本はだめである。これはまったくの著者の好みでしかない。著者は詩人としての吉行理恵のファンであり、その詩人のエッセイというものの美しい文章にいかれている。この本がプレゼント文庫としてセレクトされているのは、たったそれだけの理由である。これは明らかに間違いなのだ。しかし、素敵な間違いなのだ。


大槻 ケンヂ
『ゴシック&ロリータ幻想劇場』


(角川文庫)

「優しさを持った狂気」

 著者は音楽というものを聴く習慣がないので、この人の音楽というものを知らない。しかし、この人はきっと自分自身の性質と逆の音楽をやっていたのではないかと思う。なぜなら、この人の書くものがそうだからなのだ。狂気というものを恐れている。遠ざけようとしている。もしかすると憎んでいる。しかし、隣にある狂気に対しては優しく微笑んでいる。
もしかすると、この物語は東京に限定されているのかもしれないが、その狭い世界の中に広大な人間の歴史が描かれてしまったかのような錯覚を持って読める。ファンタジーというものは、大仰な歴史ロマンでしか書けないというものではない。不可解なら、すぐ隣にいくらでもあるのだから。そして、この小説はそうした隣のファンタジーなのだ。そんなところが鹿鳴館プレゼンと文庫に相応しいと著者は考えた。

町田 康
『東京飄然 』


(中公文庫)

「歩くことはそれだけで遊びだ」

 鹿鳴館プレゼンと文庫に作家ではなくミュージシャンが二人もセレクトされていることは著者にとっても意外である。
一方のミュージシャンはらしくないタイプ。そして、こちらのほうは、実にらしいタイプのミュージシャンであり、その著作の中でも、特にミュージシャンらしいものをセレクトした。音楽嫌いの著者が音楽について無責任なことは書きたくないのだが、何しろ、数少ない鹿鳴館プレゼント文庫に二人もミュージシャンを入れたのだから、少しだけ書きたいと思う。
この本はパンクなのだ。

小池 真理子/ハナブサ リュウ
『イノセント』


(新潮文庫)

「おしゃれなコラボ」

 この文庫は鹿鳴館プレゼント文庫の中では異色である。まず、小説でもない。小説ではないのだが、著者は小説を書くためのヒントになるのではないかと、この本を選んでいる。
なぜなら、小説とはひとつの風景に対する幻想であり、ひとつの状況における妄想なのだと著者は考えているからなのだ。
そして、もうひとつ、著者は小説に対して「いい作品」であることとは別に「奇異なる作品」であることも望んでいるのである。この本は、その「奇異なる作品」のひとつなのだ。カメラマンと作家のコラボレーション、そして、写真と文章の調和。
鹿鳴館サロンが提供したいところの遊びのひとつがこの本にはあるのだ。


東 雅夫
『文豪てのひら怪談』


(ポプラ文庫)

「スピーディな読書」

 ホラーとアブノーマルは常に隣合わせだというのは鹿鳴館サロンのひとつの主張である。ゆえに、鹿鳴館サロンでは、しばしば怪談をやる。真冬でも「怖い話」で盛り上がることがある。
そうした意味で、著者はプレゼント文庫にも純粋なホラーを一冊は入れたいと考えていたのである。そして、著者はこの一冊を選んだ。この本は鹿鳴館に相応しい上質な怪談なのだ。何が上質かといえば、きちんと人間が描かれたところの怪談だということなのだ。
また、この本はインターネット時代に相応しく実にスピーディなのだ。実は、怖さよりも、このスピード感を楽しんでもらいたかったのだ。

内澤 旬子
『センセイの書斎』
イラストルポ「本」のある仕事場

(ポプラ文庫)

「こだわりという名のゆるやかな狂気」

 本のマニアであれば他人の蔵書と他人の書棚は気になるものだ。この本はその興味をマニアックに追求している。もし、サロンがもう少しだけ裕福なら、このプレゼントはハードカバーで行いたいところなのだが、残念ながらサロンは貧しいので文庫になる。ハードカバーはもちろんだが、こうした本は自分では買い難い。買うにはいささかもったいないものなのだ。自分で買えないものだからプレゼントとしては相応しい。
また、鹿鳴館サロンは変態サロンでありながら、この本はずいぶんと普通ではないかと思う人があるかもしれないが、それはとんでもない誤解である。筆者は、ここまでマニアックで官能的な本を他に知らない。
もし、あるマニアが女性のオッパイをコレクションしていたら、それこそ筆者はずいぶんと普通だと思うことだろう。オッパイ好きはマニアじゃない。下着なら少しはマニアだし、これが靴下なら完全にマニアだ。ところがこの本は身に付けるものでさえなく、持っている本、もしくはその知識なのだからこれはマニアックである。
他人の書棚が写真でなく丹念で偏執狂的なイラストというのが、また、官能的である。

デイヴィッド・ベイジョー
『追跡する数学者』


(新潮文庫)

「本とは丹念に編まれたり縫われたりするところの
官能なのである」

 鹿鳴館というのは、ただの変態の集まるサロンではない。そこに集まるものたちには、変態であると同時に少しばかりの書籍偏愛がある。それは小説偏愛ではなく書籍偏愛なのだ。
筆者は、サロンにおいてしばしば、これからは電子書籍の時代になる、もう、本というものは時代遅れなのだ、と、主張している。しかし、その一方で、本というものに執着もしているのだ。それがこのプレゼント文庫に象徴されている。そして、この本は、そうした本という形に対するフェティッシュに満ちている本なのだ。
読むには難解で退屈である。しかし、ここにはデータではなく、本という形がたいせつなのだという証拠が並べられている。鹿鳴館はこれこそがフェティシズム小説なのだと宣言する。この本をもらった人は幸福なのだ。本は情報ではなく宝物だと分かるのだから。
小説の内容より、筆者は本というものは印刷され製本されたところにこそ価値があるという哲学のほうをプレゼントしているのだ。